毎日連載中|夫婦世界一周エッセイ

夫婦での世界一周を終えて考える、世界一周の意味①

ニウエを離れてからは怒涛のような毎日だった。

ニュージーランド・オークランドで一泊したのち、オーストラリア・ブリスベンへ。

ここでは残りの少ない予算を少しでも節約しようと、フウロと宿にひたすら閉じこもり、作業を重ねた。

僕は帰国後の講演資料作り。

フウロは旅日記の執筆。

ブログ内では載せていないけれど、フウロが書いている旅日記もめちゃくちゃ面白い。

2日に一回くらいは食べ物の話が出てくる。美味しい、とか、もっと食べたかった、とか。

まずいということよりも、食に対してポジティブな感想が多いのが印象的。読んでるとお腹が空いてくる。

僕のブログは、なるだけ現地で見聞き感じた物に忠実に。を意識して書いているけれど、やはり旅日記とは違って、人にみられることを意識した作りになっている。

でも、フウロの書いている日記はまさに”なまもの”と言うような生きている感じがあって、その文章を見るだけでその地に立った僕たちの感情が透ける。

旅後にいつかブログに載せたいなと思う。

今日は帰国前に、世界一周を終えたときのことを書いておこうと思う。

終える前の気持ちが大事。これが終わった後に書いたらどうなるのかも、また書こうと思う。

 

・・・

 

旅を終えた後。

当たり前のように、二人の話題も世界一周を終えたあとの話が増えてきて、いよいよ世界一周が終わるんだなという実感が押し寄せてくる。

僕たちの旅の歩みは他の夫婦旅の人たちよりも随分早足だったこともあって、常に次の国での生活について思いを巡らしてきた。

想像することが海外での生活ではなく、旅後の日本での生活に変わったのはいつ頃からだったろうか。

明確に変わったと感じるのは、やはりハワイ以降だと思う。

うーちゃんとお別れしたタイミングで、僕たちの旅は明らかに違うスイッチが押された。

あの不思議な毎日は、旅のふわふわした高揚感を落ち着かせ、日常の意義をどっしりと感じさせた。

世界一周が終わりに向けて舵をとる音を聞き、日本に錨をおろしたあと、世界一周での体験をもとに僕たちがどんな生活を紡いでいくのか。

旅に出発した時にはおぼろげだった未来の景色が、もうあと少しでピントが合うところまできている。

まだまだ紹介したい土地もあるけれど、この帰国までの数日の間は僕の中に灯る走馬灯を捕まえて、なるだけ忠実に、正確に書き残しておこうと思う。

テーマは一つだ。

僕たちにとって、世界一周とはなんだったのか。

 

・・・

 

世界一周をするために、僕たちは過去夫婦で世界一周をした人たちの書物を買いあさり、ブログを読んだ。

みんなすごく楽しそうだったけれど、なんだか僕たちがそのままお手本にするには違うような、違和感がずっとあった。

その違和感は、旅していく上で少しずつ明確になっていった。

旅の始まりの地、ロシア・トゥヴァを終え、タイに行って、僕たちは初めて観光地を巡った。

一・二箇所回るとすぐにお腹いっぱいになってしまって、その後はほとんど観光地を回ろうと思わなくなってしまった。

観光地にあるものはどれも素晴らしいけれど、でもそういうものを見るために僕たちは旅をしているわけではなかった。

逆に僕たちの旅に鮮やかな色彩を感じたのは、トゥヴァで遊牧民の人に会った時や、ポルトガルでセザールとイザベルと話した時や、ハワイで恵子さんに会った時や、ニウエでの岸家の人たちとの生活だった。

ガイドブックやブログに書いてあるものと、僕が色彩を感じたものの違い。

違いははっきりしているけれど、この違いを言語化するのはとても難しい。

でも、あえて言葉にすると、多分僕が感じた「色彩」は、行けば出会える類のものではないのだと思う。

僕の書いた内容をそのままなぞろうと思っても、同じ体験は誰もすることができない。

その奇跡は全ての人に与えられていて、逆に全ての人が違う形で享受することができるもの。

その奇跡が生まれるタイミングは、運命として一人一人で決められているような気がする。

だからそれは世界一周だからできたことでも、旅だからできたことでもない。

僕たちが「世界一周を目指して」本気で準備して、「この数ヶ月の間海外で生きた」なかにもたらされたことなのだ。

世界一周という単語に何かの力があるわけではなく、一つ一つの国に力がある訳でもない。

すべては自分に中にある感覚なのだ。

 

・・・

 

日常生活の中でも、心が開くタイミングというのがある。

考えが深くまで及び、これからの生活への指針が見えるタイミング。

そんなタイミングが、準備を重ねて世界をめくるめく旅する中には訪れやすい、というだけなのだと思う。

この色彩こそが人格や人生観を作り上げる核になるものだと思う。

フウロと二人で焦りながら紙を作ったり、極限の選択を迫られながら下した行動の端々には、世界一周をしなければ得られなかったような人生の輝きがあった。

しかし、それを感じる手段は、世界一周だけではない。

世界一周は物理的な距離やハードルの高さで非日常がもたらす意識の壁を簡単に越えられるだけで、日常にもその感覚は眠っているのだ。

僕たちにとって、世界一周の経験はとても大きな影響をもたらした。

それ以前とそれ以降で明らかに思考が変わったと言えるような、大きなターニングポイントになった。

しかしそれが、「世界一周」という行動によってもたらされたような気はしない。

むしろもっと内面的なもので生まれた、些細なことのように思えてならない。

だから、みんなに「世界一周っていいよ。やるべきだよ!」とは言う気にならない。

ニウエで出会った岸さんに言われた言葉がふっと頭をよぎる。

「世界一周してるって言うから、もっと普通の人たちなのかと思いました。あなたたちは本当に変な人たちですね。」

この言葉は僕が旅する中でなんとなく感じたことを言い当てていた言葉だった。

世界一周自体にはなにがある訳ではない。

観光地を巡るだけであれば、近所の博物館を見て回るのと何にも変わらないのだ。

僕たちが普通か普通じゃないかは自分では判断できないけれど、岸さんが「とても変だ」と言ってくれたことは、夫婦で紙を作りながら回っていることだった。

岸さんの言う、「変な人」は最高の褒め言葉だった。

そしてそれが、世界一周の正体のような気がした。

世界一周は殻だ。

ただそれをするだけでも十分に楽しめるけれど、それは別に大きなことではない。

あくまで通常の旅の延長であり、日常の一部なのだ。

でも、その殻の中に何を育むかによって、それは別の大きなものを産んでくれる。

その大きなものを産み出す方法は、いろんなやり方があり、正解はなく、みんな違う。

そのうちの一つが世界一周という行動なのだと思う。

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