旅に出る前、僕は事あるごとにこう言っていた。
「旅には出なければならない」
旅をすることで、僕の本来の姿が見える気がして、半ば病的に旅を求めていた。
世界旅行に行くために必要な費用は最低でも300万円。
夫婦で暮らす生活費と奨学金諸々の返済費を加えると、日々の生活は逼迫していて、世界旅行の前には旅に行く余裕などなかった。
しっかりとした旅をせずに一年、また一年と過ごしていくと、旅に対する餓えもまたひどくなっていった。
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僕は水面に浮いている。
絶え間なく波が押し寄せ、僕の体を左右に揺らす。
海に照りつける太陽が眩しく、遠くに見える雲はまるで油彩のようにもこもこと見事な形を保っている。
スリランカ南西部、ウナワチュナに着いて6日目。
世界旅行の中でも、これほどまでになにもせずに1日1日を過ごすことは始めてだ。
だからこそ、旅とはなにか、人生とはなにか、これから僕たちはどうしていけばいいのか。
答えの無い問いに心を傾ける余裕も出てくる。
もっぱら、僕の中にもたげる問いは、「なぜ僕は世界旅行をしたかったのだろう」という問いだ。
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いよいよ、世界旅行をスタートしてから1ヶ月という月日が流れた。
僕たちの歩みは他の世界旅行者と比較して、だいぶ急ぎ足だ。
1ヶ月で4ヶ国。1ヶ国あたり約1週間で回っている計算になる。
旅のスタートがロシアとトゥヴァで日程がガチガチに決められたツアーだったこともあり、のんびり旅をする方法を忘れてしまったみたいに、5日も同じ場所にいると体がムズムズするようになってしまった。
旅に出た時に感じる、「異文化の新鮮味」には一通り慣れてきてしまったようで、特に大きな衝撃も感じられなくなって来ている。
同時に、何かを貪欲に得ようとするようなアグレッシブさも徐々に失われつつある。
なんだか無意識にそれが僕たちのせいではなく、滞在している国の魅力不足にしているような気がして、後ろめたい。
でも、少なくとも僕はガイドブックに書いてあるようなことを見に行くために旅行をしているわけではないのだ。
では、ガイドブックに載っていない。
僕が旅に求めているエッセンスが詰まっているのはどういう時なのか。
例えば…
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今日、昼飯から帰る途中、いつもの宿の前の道に体長1メートル前後のインドオオトカゲに出くわした。
大きな体のくせに挙動は日本のカナヘビのそれとそっくり。
少し近づこうとすると、一目散に逃げようとした。が、体が大きいので隠れきることもできず、普通のカナヘビのようにスタタっと壁をよじのぼることもできない。
結局正面突破で僕とフウロの狭い間を全力で駆けて行った。
偶然にも、逃げて行った先には同じくらいの大きさのオオトカゲがもう一匹いた。
宿に宿泊して今日が5日。初めての出来事だった。
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今日の夕飯はいつものロティとサモサのつもりで、ロティが焼きあがる夕方6時に出向いてみると、いつもなら山積みに置かれているロティの生地が無い。
顔なじみの店員に聞いてみると、「今日はロティは無いけどコトゥはある」とのこと。
なに?コトゥって。と尋ねると、まあ今から作るから厨房を見てろ、と促される。
コティは薄く焼き上げた小麦粉の記事をみじん切りにしたものと、ネギ・人参・チリペッパーを一緒に和えてスパイシーなルーを回しがけした料理。
食べてみると、これが日本の焼うどんのよう。
「これ美味しいよ。毎日作れるの?」
「作れるけど、これは夜だけだよ」
いつの間にか店員と当たり前のように英語で会話をして去っていく。
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僕たちの泊まっている宿は、宿主の家族の庭と地続きになっている。
宿主の家族構成は、おじいちゃん、おかあさん、その子供女の子の三人。
時々二人くらい素性の知れない人たちが昼飯を食べにくる。
女の子は4歳。ちょうど遊び盛り。
宿に来た初日は随分緊張しているようだったのに、二日目からは僕たちに興味津々のようで、庭に咲いている立派なお花をブチブチとってプレゼントしてくれる。
気をよくしたのか、次の日は宿の中で入って来て遊ぼうとせがむ。
写真を撮ると、カメラを触りたそう。シャッターを押すとバシャバシャ音がするのが楽しいようで、何十枚も撮っていた。
午後になりフウロが起きてきたので、二人で一緒に遊んであげることに。
三輪車を押してあげるとキャッキャと喜んだ。
子供と遊ぶとこんなに汗が出ることを初めて知った。
女の子は口に含んでいた唾液ベタベタのぶどうを僕に差し出した。
いろんなことが頭によぎったが、全て無視して食べることにした。
ベビーパウダーの香りが口いっぱいに広がった。なんだかいろんな意味で甘いぶどうだった。
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僕が世界旅行に求めていたことは、多分この三つの出来事に含まれている。
それを言葉にするのは難しいが、一番近い言葉は、邂逅だと思う。
予定になかったところで生まれる素敵な出会い。
それが僕の頭を広く、柔らかくしてくれる。
同じような体験はもちろん日本でもできるはずだけれど、旅をしているからこその自分の変化が、より邂逅を深く意義あるものに変えてくれるのだと思う。
世界旅行の意味を見出すにはまだ1ヶ月では足りないけれど、一瞬の旅ではなく、長く世界旅行をしているからこそ、小さな邂逅を拾う心の余裕があるように思える。
今のところは、それを答えとしておこう。