急斜面をフウロとふたりで駆け上がる。
湿気のない乾いた空気。刺すように強い太陽が体を照りつける。足元には背丈30センチほどの草が生い茂っていて、カモミールのようなハーブの香りが一面に漂っている。
ここはトゥヴァの首都クズルから車で30分ほど離れた牧草地。
ふもとを見下ろすと、僕たちが宿泊しているゲルが見えた。
「もうこんなに登ってきたんだ…」
独り言のように呟き、息を切らせながら頂上を目指す。
・・・
「トゥヴァっていう国に行ってみたいな」
フウロからそう言われたのは、今から5年前。僕たちが大学生3年の時だった。
キューバやチューバ(楽器)の間違いかなと思ったけれど、どうやらモンゴルの近くに僕たちと顔がそっくりの人たちが住む国があるらしい。
ホーメイという高音と低音の二重の音程を同時に出す歌唱法の発祥の地ということ。
ゲルを使った遊牧民族ということ。
フウロはなぜかトゥヴァに惹かれるということ。(フウロはモンゴル系の顔立ちなので、どことなく血の繋がりを感じるらしい)

Native Tuvan
日芸の授業でトゥヴァのことを知ってから、フウロは何十年も前に出版された「トゥヴァ紀行」という本を中古で買い、いつしか行ってみたいとことあるごとに言うようになった。
フウロが「どこかに行きたい」と言ってくるのは、珍しいことだった。
フウロは、欲が少ない人だと思う。ここに行きたい、これが買いたいということをあまり聞いたことがない。(これを食べたいはいっぱいあるけど)
いつしか二人で世界旅行をしたい、という話は出会った時からしていたので、行きたいと思える国が見つかったのはとても嬉しかった。
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でも僕は、トゥヴァに行くのは無理かもしれないとも思っていた。
話を聞いてすぐに、トゥヴァへのアクセスを調べてみたことがある。
トゥヴァはロシアとモンゴルの境界に位置し、ロシアに所属する共和国ということがわかった。
ただ、スカイスキャナーで飛行機を探しても、情報が全く出てこない。
日本人のブログをみつけても、参加者を募ってチャーター機を手配したとか、かなりハードルの高い記事ばかり。
しかもロシア領だから言葉も心配だし、ロシアのビザは宿泊先などを事前に指定してビザを発行する必要があるため、行き方もわからない状況で行くにはハードルが高すぎたのだ。
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このご時世、地球上のどこでも日本からGoogleMapsで見ることができる。
だから、航空券だって宿だって、現地の言葉だってネットで調べればなんだってわかる。
僕は頭のどこかで、もう調べて出てこない世界がなんてないと思っていた。
でも、このトゥヴァという国は、地図上でどこにあるのかはわかっても、行き方もわからなければそこでどんな生活が営まれているのか全然わからない。
だからこそ僕は、ここには行かなければならないと思った。
便利な社会で知らないうちに出来上がっていた、「なんでもわかる」という思い込み。
それはいろんなものに恵まれて生活して来たからこそ生まれる、一種のおごりのようなもの。
僕はそれが、今の人間がついつい陥りがちな「頭だけを使った物事の考え方」のような気がした。
トゥヴァという国は、僕の頭の完全に外にある世界。
そこに足を踏み入れることで、自分の小ささや、生き方が、なにか変わるかもしれない、と。
それが、フウロの夢を叶えることと同じくらい、僕には大事なことのように思えた。
・・・
急斜面を登り切ると、だんだん緩やかな登りへと変わっていく。
麓にあった牛の糞もここにはごろごろ転がっている。
息を整えながら先に進むと、虹色にたなびく旗が見えた。
オーヴァだ。
シャーマンたちはこの場所で動物の骨を供え、鼓を叩き、祈祷をする。
丘の頂上は、このあたりで一番標高が高い。360度全ての場所を見渡すことができた。
数キロ先の山々まで、鮮明に見える。雲が影を作って、大草原のところどころに陰っているところがあった。
雲はまるで絵で描いたように、歩みを止めている。
風が音もなく流れ、時が止まったような空間の中で、時折バッタが飛ぶ「ジジジ」という音が聞こえる。
フウロと道端の石に腰掛け、あたりをゆっくり見回すと、ようやく着いたという実感が湧いた。
「ここがトゥヴァなんだ。本当に来たんだ。」
いままで行ったことのあるどこの自然とも違う、トゥヴァの光景。
圧倒的な開放感。でも不思議と不安はなくて、大地に包まれているような安心感で満ち足りている。
背丈の低い緑色の草たちはみんなおしゃれな色をしている。灰色がかった緑、黄緑、黄色。それらの草がポツリ・ポツリと生えていて、遠くから見ると緑色の絨毯のようだ。
見下ろすと、人間が住んでいるところが平坦な所に集中しているのがわかる。
大きな丘に囲まれた少しの平野にひしめき合って建つ建物と、離れたところにポツリポツリと建っているゲルの光景。
フウロがゲルが好きというのがわかる気がした。
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時が経つのがとても遅い。日本の半分、三分の一ぐらいにも感じられるくらい。
丘の上で遠くの山めがけて叫んでみた。お手本のようなこだまが僕たちの元に返ってくる。
フウロはやまびこ自体がはじめてらしい。初やまびこがトゥヴァなんて、なんだかすごい貴重だ。
地面に寝転んでみた。草は先端が尖っていて背中がチクチク痛む。
澄んだ空に雲が流れている。
大地が少しだけあたたかい。
僕は地球にいるんだなと思った。
・・・
トゥヴァに来て、一つだけわかったことがある。
それは、自分の頭の中の世界を広げる方法は、旅に出る以外にないということ。
普段僕たちはいろんな物を駆使して、自分の目の前にないものを見たり聞いたりすることができる。
でも、視覚的に再現できても、そこで踏みしめた大地の感覚、匂い、日差し、解像度では表せない大気の空気感は、現実のその場所にしかない。
そういうものを本当に分かることは、現実で体験する以外には不可能だ。
僕は、それが脳の限界なんじゃないかと思う。
人は現実でそこに行くことによってしか、その場所に行った時の感動を知ることはできない。
僕はトゥヴァに行くことで、僕の頭の中の世界を広くすることができた。
トゥヴァの大草原は、僕にそのことを教えてくれた。