一冊の本が、人の生き方までも変えてしまう。
そんな本との出会いが、人生で何回か訪れるのだと思う。
文章の羅列を超えて、人生の編み糸に絡みつく。
その本を見つけてからの人生は、燦然と輝くようになる。
僕にも、そんな本があった。
その本が、ほかの誰かの生き方も変える一冊になるのかもしれない。
サウスポイント よしもとばなな
ひばりヶ丘北口の階段を降り、今は無き正育堂書店を入ってすぐ左手にある女性小説家の並ぶ本棚に、サウスポイントはあった。
なにかに引き寄せられるように本を手に取り、ほとんど立ち読みもせずに、レジに持っていった。
高校三年の夏だった。
買ってからもなんとなく読まずにいて、僕は大学の受験に落ち、翌年の4月、上高地の山小屋住み込みバイトに向かった。
岩魚を焼く囲炉裏の脇に座りながら、英単語を学ぶ日々。
あんなに素晴らしいと感嘆した大自然は1週間もすると変化のスピードがゆるやかすぎて、すぐに暇を持て余すようになった。
そんな時に、暇つぶしで持ってきていたサウスポイントを読んだのだった。
ハワイアンキルト作家の主人公と、初恋の相手のウクレレ奏者の、サウスポイントを巡る奇跡のはなし。
他のばななさんの本と明確に違ったわけではなかった。どの本にも共通した、しっとりと広がっていくばななさんの描く世界観が描かれていた。
でも、なぜかこの本には、僕のなにかを強烈に揺さぶる力があった。
本にはいくつかハワイ島の写真が載っていた。でも、その写真では伝わりきらない何か強い力を、この本から感じたのだった。
浪人のこと、仕事のこと、未来のこと。いろんなことがあった時期で、僕は悩んでいた。
嘘みたいな奇跡が起こってしまうサウスポイントという場所に強い力で惹きつけられた。
すがるような気持ちもあったのかもしれない。この本に、「サウスポイントに行け」と言われた気がした。
急いで山小屋の屋根裏にある小さな部屋で、パソコンでハワイ行きの航空券を調べた。
6月のオフシーズンなら5万円で往復チケットが買えることが分かり、休日に携帯の電波が繋がる上高地のバスターミナルまで降りて、チケットを予約した。
18歳。人生初の海外旅行だった。
・・・
えんじ色のトラックの背に乗せられて、凸凹としたサウスポイントロードを走る。
宿のどんよりと重たい曇り空だったのに、数キロしか離れていないサウスポイントの周りは晴れ渡っていた。
爽やかな水色の空に、錆びついて止まっている大きな風力発電機が映えた。
サウスポイントは波と風が常に音を立てている場所だった。
真っ青な海にそり立つ赤茶けた岩盤に、船を止める穴がいくつも空いていた。
サウスポイントに行くまでの道のりは、初の海外旅行ということを抜きにしても決して楽ではなかった。
近くの宿は、ハワイにやってきてから見つけ、そこからヒッチハイクをしてここまでやってきたのだ。
あの日感じた力に導かれるように、サウスポイントにたどり着くことができた。
さぞかし素晴らしい体験があるのだろうと思って見た光景には、達成感に近い感慨はあったが、でも、なにかが足りない感じがした。
ずっと風が吹いていた。
一人でくる場所では無いのかもしれないと気が付いて、唐突に寂しくなった。
この景色を、いつか誰かと見たい。まだ見ぬ誰かと一緒に。
宿に泊まっていた、2年間、世界を旅しているというドイツ人夫婦のことを思い出した。
いつかあんな風に夫婦でこの景色が見れたら最高だなと思った。
・・・
今思うと、これは始まりだったのだと思う。
大きな扉をあけるための、最初の一歩だったのだ。
サウスポイントに行ったことは間違いではなかった。
一人で行ったサウスポイントの光景。この旅行に行くために買った業務用カメラ。今の僕を構成する大切な経験になった。
でも、そんなものはまだまだ序章にすぎなかった。
9年後にもう一度サウスポイントに訪れ、夫婦で世界一周旅行をするとは、このときは思いもしなかった。
後編につづく
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