ひどく寒い我が家の寝室は室内だというのに息が白く、寝ている間に鼻っ柱が冷たくなっている。
雨戸をしめているため、朝になっても部屋の中は真っ暗なまま。
旅の間も時刻を告げていた祖父の形見の掛け時計は、電池がすっかりなくなって、8分後にボーン・ボーンとゆったり時を知らせた。
日本に帰ってきて、まず食べたかったのは白飯だった。
我が家の南部鉄器の釜で炊いた白飯は、タイの米とも、スリランカの米とも、ポルトガルやモロッコの米とも違って、もっちりふっくらしていた。
それに、旅の間熟成させていた黒豆の自家製味噌で作った味噌汁と、梅干しを添えて、久しぶりに我が家の机で朝飯を食べた。
体が日本の空気や、家の匂いを知っていた。
順応しようとしなくても、体が勝手に日本に合わせるように、こわばった体をほぐした。
世界一周の後半中、2日に一回は見ていた悪夢が、その日はぱったりと出なくなった。
フウロと一緒に、10時間以上も寝た。
日本に帰ってきたのだ。
・・・
世界一周をして、一番変わったと思ったのは「スケール」だった。
スーパーの台車に小さいと唸り、我が家の屋根に低いと言い合った。
いつの間にか僕たちの感覚のものさしはとても大きなものになっていたようで、日本の日常は全てこじんまり。おままごとをしているように見えた。
僕たちにはこの小ささに安心を感じるとともに、旅行中には感じることのなかった窮屈さも同時に感じた。
車を運転してみると、田舎と思っていた自分の周りでも、何10台もの車とすれ違った。
ふと、ニウエで運転した時のことを思い出した。
ニウエでは車が通り過ぎる際には、片手をあげて挨拶するのがエチケットだ。
そのエチケットが、旅人と地元民の距離を近くし、心を暖かくしてくれたことを思い出した。
僕は、すれ違う車に手をあげようとし、やめた。
ここは日本なのだ。
・・・
僕が日本に帰ってやりたかったことは、やっぱり食べ物を作ることだった。
フウロの実家でもらったゆずを使って、柚子胡椒を作ることにした。
黄色いゆずに、中国産の唐辛子を買って、スペインで買った岩塩で味付けをし、フードプロセッサーで砕く。
柚子胡椒のつもりが、できあがったのはほとんど”かんずり”だった。
この調味料を使った料理が美味しすぎて、僕たちは味噌汁とご飯とこのかんずりだけで十分に満足した。
旅行前に使っていたように、塩と砂糖を合わせて旨味を引き出すとか、隠し味にケチャップやソースを入れる、みたいなことはする気にならなかった。
味噌汁なら、味噌としいたけだけ。
柚子胡椒なら塩だけ。
そのものが生み出す旨味に驚き、フウロとうまいうまいと言いながら、ご飯を大切に食べた。
我が家の食器も、調理器具も、机も、箸も、旅を終えても愛着は変わらないままだった。
家には余計なものがなく、1日あたりを掃除すると、まるで一週間前までオーストラリアにいたのが嘘のように、すぐに今までの形が姿を表した。
世界一周をしている時の自分が陽炎のように原型をとどめなくなっていくのを感じた。
しかし、僕の中には確かに、旅行の経験がしみているのだ。
僕は、世界一周をする前の自分のことが愛おしくなった。
この家には、僕たちのどっしりと根を張った生活があった。
それは世界中を見てきた今の僕たちにも、十分に魅力的なものだった。
この家で、僕たちはまた一から暮らすのだ。
お金というお金を使い果たしてしまったが、逆にお金以外のものが全てあった。
不思議と怖さはなかった。
一番大切なものはしっかり残っている気がしたからだ。
・・・
次の日には、庭を整理することにした。
旅の間、月に一回両親が庭を整理してくれていたおかげで、庭は旅前とそう変わらない姿をしていた。
しかし、僕たちの植えた植物はものすごい勢いで成長を遂げていた。
トネリコはふた回りも太くなり、歩く場所を遮るほどに枝を伸ばしていた。
小さな苗から育てているユーカリは、今や大木と言ってもいいほど大きく成長し、家のシンボルになりつつあった。
うーちゃんをフウロの実家から連れて帰り、庭に離すことを想像した。
もう姿形は見えないうーちゃんが、どこでどういう風に動き回り、どんな声で鳴くのか想像できた。
見えないけれど、ずっとそこにいる気がした。
ラズベリーを見てみると、夏を越して見たこともない紫色の実がたわわに実っていた。
うーちゃんの祭壇にお供えして、僕とフウロもそれを食べてみた。
世界のどこで食べたラズベリーよりも、日本らしく、我が家らしい味だった。
時の流れがとてもゆっくりしていた。
家の周りでは、鳥のさえずりも聞こえず、シンとしていた。
僕はそのことにとても満足した。
僕がずっと求めていたことだった。
・・・
世界一周で得たものは、物理的なものよりも、精神的なものの方が大きかったことに気が付いた。
僕たちのみる景色は、旅に行く前と確かに変わった。
同じ景色や日常には、世界一周と同じくらい、素敵な体験が詰まっていることに気が付いた。
この感覚をいつまでも覚えていたいと思った。
旅はいつでも終われるし、いつまでだって続けられるのだ。