おいしさはストーリーが生み出す
おいしいごはんが好きだ。
小さい時から、おいしいものに目がなかった。
いわゆる”美食家”ほどではないし、ご飯のためなら地の果てまで駆けていくというレベルではない。
でも、おいしいものとそうでないものの区別は、人よりもつく方ではあると思う。
そんな僕は今まで、おいしいごはんは食材や調理法によって生まれるものだと思っていた。
でも、2017年にフウロと千光寺で断食体験をした時に、一つのことに気が付いた。
3日間の断食を経て、宿便を出すために出されたのは、梅干し汁。
フライパンで焼いた焼き梅干しに、お湯を入れただけの汁。
三日ぶりに口に含んだ食事のおいしさは、高級食材で作ったごはんに数段勝るおいしさがあった。
あの経験は、僕に一つの価値観を教えてくれた。
それは、おいしさは心で感じるものだということ。
味のおいしさは、感覚によって生み出される。視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚の五感だ。
でも、「心のおいしさ」は、この五感以外の感覚によってもたらされる。
だから、ちっとも楽しくない時や、ストレスが極限に達している時には、どんなに「おいしいはず」のご飯も味気ないのだ。
食材を得るまでの過程。
ご飯が作られるまでの過程。
そして、ご飯を食べる時のシチュエーション。
それらのストーリーがご飯の出来栄えと合間って、極上のおいしさを生み出す。
僕とフウロの生活は、自分たちの中で大事にしたいご飯の時には、そのストーリーを大事にしている。
このシリーズでは、僕たちが作ったご飯と、そのストーリーを綴っていこうと思う。
親友と手打ちうどんを食べる
帰国後、フウロの親友が家に来ることになった。
旅を終えてからの僕たちには、とにかく食材がない。
家にあるのはフウロが実家からもらってきた白菜、大根だけ。
そこに強力粉と玉ねぎを買ってきて、かき揚げうどんを作ることにした。
世界一周旅行中には一度も食べることがなかったうどん。
どこの店のうどんよりも、家で作る手打ちうどんが食べたかった。
前日に練って寝かせていた生地をほぐす。
食べたいのはコシの強いうどん。出来るだけ加水せず、ボソボソの生地を米袋に入れて踏むことでなんとか生地にする。
それを寝かせると、なんとか生地として伸ばせるようになる。
母がくれた、キッチンを作る時に出る廃材の大理石の板の上で、できるだけ細く切っていく。
となりではかきあげ作りの真っ最中。
ザクザクとした歯ごたえのあるかき揚げが次々にできていく。
うどんが茹で上がり、冷水でシメる。
我が家の水は冬になると、雪国と見まごうほどに冷たい。
うどんをすすりながら、積もる話をひとつ、ひとつ消してゆく。
ノヴォシビルスクにいた時にくれた連絡のこと。
うーちゃんが空に旅だった時にくれた連絡のこと。
うどんは味わい深く、親友が家から採ってきてくれたほうれん草はおどろくほど甘かった。
僕とフウロの未来。
そして、親友の未来を話すこの日には、手打ちうどんがぴったりだった。