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逃避できる世界を一つだけもっていたかった

そうそう、すっかり忘れていた。僕は本が好きなのだ。

実家は学者の両親の家とはではいかなくとも、そこそこ本がある家だった。美術書に図鑑、絵本に料理本。本棚は確か3つあって、他に父親の仕事場には古来の美術書や図録で溢れかえっていた。

一方で小説はほとんどなかった。家でちゃんと読んだ記憶があるのは妹尾河童の「少年H」と、ゴミ捨て場拾ってきたのかと見紛うぐらい汚れた村山由佳の「おいしいコーヒーの入れ方 3巻」。

あの本で僕は青春の甘酸っぱさを学んだのに、大学に上がることには泥沼の展開に陥り、実質休刊になってもう10年近く経つ。僕の青春にピリオドを打ってください由佳さん。

母親は若い頃から新聞スクラップ魔で、ファイルいっぱいに記事をまとめていた。日本の文化やしきたりにはやたら詳しく、僕が知らないことがあると気づくや否や、机の上に関連記事を山積みにしてきた。

いやいや、してきたなんておこがましい。今思えばあんなに優秀でホスピタリティあふれるキュレーションメディアもないのに。

どんなに中身が素敵でも、誰かから勧められたことを素直にできないのは子供のころからの性だったのかもしれない。

新聞スクラップの半分は読んだ内容を覚えていないし、もう半分は読まずに捨ててしまった。小学生のころ母親は図書館で小説を借りてきてくれたけれど、それもほとんど読まずに、背表紙のあらすじと最後の数ページだけを読んで偽りの読書感想文を仕上げていた。中身空っぽのことをしたときってしたことは覚えているけど、やっぱり中身のことはこれっぽっちも思い出せないんだな。


そんな自分が高校生に上がるときにはいっぱしの読書好きになっていたのだから人生は不思議だ。きっかけは小学4年生のときに読んだ「はてしない物語」。めまぐるしく変わるストーリーに、読者である主人公が物語の中に入れるというロマン。

あの小説で本の面白さを知り、時は流れ中学三年の秋に「白い巨塔」から小説の深さを知る。というより、医療現場、覇権争い、手術ミス。なんでも文字でハラハラできればよかったのかも。

ちょうどそのころ、同級生の一人が2005年の夏に図書館で平置きされていた東野圭吾の「あの頃ぼくらはアホでした」、重松清の「ビタミンF」、村上龍の「69sixty nine」、石田衣良の「4TEEN」を始めとする文庫を20冊まとめ買いしていて、テンポが良くて読みやすく、かさばらない文庫を入り口に本の沼にズブズブと入っていった。

本を読むという行為すべてが楽しかった。どんな本でも読めば涙が流れ、切ないとか悲しいとか悔しいとか、ひたすら感情が爆発していた。50冊読み終わる頃には感情フィーバーが収まり、読み返してみるとあれ?何に感動していたんだっけと我にかえるような本にも何冊か遭遇したけれど、本を読む行為がしっかりと自分に染み込み、いつしか自分の生活の一部になっていた。

とはいえ、大学を卒業し仕事に忙殺される日々が続くと、あれだけルーティンになっていた読書もいつしかなおざりになる。体調不良が明確になり、これはいよいよ何かを変えなければと思い火を眺めていた一昨日。天啓が舞い降りた。「本を読め」と。

本からなにかを得られたら嬉しいけど、得られなくたっていい。そもそも一冊の本で人生が変わるほど人生は甘っちょろくない。(僕は一冊の本を読んで世界一周したけど)僕にとって本を読むということは、現実の世界に流れる時間軸から自分を引き剥がし、別の世界にピン留めする移動手段のようなものだ。

「そうと決まったら」と意を決する。

村山由佳から始まり、よしもとばなな、三浦しをん、宮下奈都と、僕の心を揺さぶる人たちは女性ばかり。今回ポチったのが、岡田育さんの「ハジの多い人生」。世界一周前から度々ブログを覗き見していて、そろそろ長文が読みたいと。なんでもはじめては緊張する。でもこの一冊が自分の何かを変えるに違いない。

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