春キャベツの皮を剥いた。
ぺりっ、ぺりっと、食べられなさそうなところを剥いでいくと、意外とおいしく食べられる場所が少ないことに気がつく。
こんな何気ない動作の一つまでもが、本づくりとリンクしてしまう。
僕の紡いだ文章には、おいしく食べられる部分があるのだろうか。
まだ足りないまだ足りないと皮を剥いていった先には、食べられる場所なんてないのかもしれない。
そうして、また新しいキャベツを仕入れて、慎重に、祈る気持ちで剥いてゆく。
ハンバートハンバートの「虎」の一節がこだまする。
腐ってはいないよねと思いながらPCを眺めると、キャベツの皮が散乱していた。
だがしかし…
どこまでがおいしいキャベツで、どこからが食えたもんじゃないキャベツなのだろうか。
向き合いすぎて判断基準までもが狂っている。
PCの画面で見る原稿と、印刷した原稿、そして製本した原稿では同じ文章でも見え方が全然違うということを、発行一週間前というタイミングでようやく気づいた。
それは、キャベツに例えるならば生食か加熱食か、というようなことだと思う。
生ならイケる味なのに、加熱した途端に化けの皮が剥がれるキャベツもいるから厄介だ。
でもこの話は美味しいと思っていたものが実はうまくないという話になってしまいそうだ…これ以上の深追いはやめておこう。
・・・
昨日の朝から朝までかけて、キャベツをちょっと湯がいてみた。
それぞれの味をしているように見えた原稿たちが、整えられ、めくれる形に変わってみると、雑味に思えていた部分がかくし味に見えてきたりして混乱しながらも嬉しくなった。
もうキャベツの皮を剥いでいくのはやめよう。
収穫できたキャベツをどれだけおいしく調理できるかを考えよう。
冊子の形になった原稿たちは、少しホッとした顔にも、どうだ!と主張する顔にもみえた。