「文章って自分のどこからやってくるんだろうね。」
昨日の夜、フウロとそんな話になった。
キーボードを打ち文章を紡いでいく作業は、自分の意思とは言い切れない不思議な感覚がある。
こう書こう。と全てを決めている訳ではないのに、文章が生まれていく。
今のこの文章だって、一体どこから作られているんだろう。
頭で考えているときにこういう形で浮かんでいる訳ではないし、しかも、これがノートに書くときと、PCで書くときでも違う。
PCでも、Windowsで書くときとMacで書くときだって違うのだ。
文章を生み出す行為は線路を走る列車のようで、一度走り出すとその道が行き着く場所は決まっている。
だから、進みたい方向に行くための線路を敷いてあげる必要があるのだ。
本を書くために、本を読む。
それが、最近僕とフウロがやっていることだ。
まっさらなパレットを広げて、そこに原色の絵の具を乗せていくことが文章を生み出すことだと思っていた自分にとって、最初は抵抗のあることだった。
でも、本を読むことで、明らかに線路が変わるのだ。
本に書いてある文章をなぞるわけではないのだけれど、書くことの視野が少し広がってくれる感覚がある。
とても大事なことだ。
僕が行きたいところに行くためにやっていることは、本を読むことだけではない。
例えば、「文章を書く時は、インスト曲を最小音量でリピートする」だったり。
「文を書く前は必ずミルクたっぷりのカフェオレを淹れてから」だったり。
ああでもないこうでもないと実験した結果見えている謎の法則にしたがって、今日も列車を進めるのだ。
・・・
寝坊したせいで、今日のカフェオレはなし。
時間がないので、音楽も流さず、本も読まずにブログに着手した。
そうしてできた文章を眺め、やっぱり自分の仮説は正しい感じた。
少しだけ着地点がずれていた。