#5 life⇆work essay 古さをたのしむ

「何もしない」ことがやりたくて、夫婦で海に出かけた。

久しぶりの休日だった。

ホテルの最上階にある大浴場で、僕は茶色い大理石に肘をかけ天井を見上げていた。

新しいものには初々しさがあり、アンティークには趣がある。

けれど、と思いながら、天井を眺めた。

ではただ古いものは。

決してきれいとは言えない水垢のついた大理石や、天井にちらちら見える黒カビを追いかける。

決して良いとは言えないその景色に、不思議と、僕は心地よさを感じていた。

大理石をゆっくりとなぞりながら、この大浴場にびっしりと人が往来する様を思い描いてみる。

設立10年あまりの会社が初めて企画した慰安旅行や。

親戚一同が集まって遊びに来た子どもたちの元気な声や。

ここで結婚式を挙げたあと、おめかしを落としにひと風呂浴びた人や。

それは間違いなく、数十年の間ここで行われていて、普段の暮らしや仕事の小さないさかいも、ここに張られた湯が洗い流したに違いなかった。

その結果、錆びて古びてしまって、木造建築や仏像のように古びれることで美しくなるわけではなかったかもしれないけれど、古びるだけの時間を過ごしたものには、その時間だけ宿しているものがある。

今まで思い至らなかった考えをふいに見つけたことが嬉しくて、のぼせるまでずっと大理石の白い痕をなぞっていた。

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