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永井宏さんの「A BOOK OF SUNLIGHT GALLERY」を読んで。

生まれて29年あまり経つが、僕は師と崇め人生の目標に据えるような人物に出会うことなく育ってきた。

正確にはそれに近い人は二家族だけいる。

一人は沖縄の離島に住む”ガウディ”と呼ばれる作家、カーズ。もう一人は19歳のときにハワイ島で出会い、9年後の世界一周旅行で再会した、オレンジ農園を営んでいたケイコさん。

どちらも人生に大きな影響を与えてはいるし、これからも自分の人の大切な部分を支えてくれる人々だけれど、目指すものが違いすぎて自分の未来にはどうにも当てはめられない。

僕は一つのものを極める人生を歩むことなく、色んなものに没入しては離れ、ふらふらと生きてきた。

ものづくりは好きだし、それがなければ自分の体が半分くらいどこかにいってしまいそうなぐらい密着していると感じるけれど、僕にとってものづくりとはものを生み出すことに主眼があるというよりも、ものを生み出すという行為自体に宿る価値や、それをすることで残る人生に興味がある。

なにを考えなくとも、呼吸をし、食事をして、起きて寝ればそれが人生になる。

でもそうくっきり、ぱっきりと感情を割り切れず、あーだのこーだの考え、選択に一喜一憂してもがきながら生きることで、ものづくりを通して人生を開き、人生の役割を考えることを人生にする。僕はそんな考えを「つくるいきる」と称している。

卵が先か鶏が先かと問うているような煙に巻く価値観だけれど、そんな生き方を目指したいし、目指して生きる以上は先駆者からの助言も賜りたい。

どこかに人生の師はいないだろうか。20代も最終コーナーにさしかかって、僕はもっぱらそんなことを考えていた。

 

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フウロから「永井さんの考えは近いかもしれないよ」と言われたのは去年のことだったと思う。

永井宏という人は、絵描きだった。でも個展をして作品を売る”いわゆる”作家ではなく、絵も描くし文章も書き、ギャラリーも開くしウィンドウサーフィンもする。出版社も作ったことがあり、60歳あまりであっという間に亡くなってしまったという、ふわふわとした雲のような人だ。ついでに短パンにビーサン。出で立ちも僕と少しだけ似ている。

彼の書いた「A BOOK OF SUNLIGHT GALLERY」という本は、そんな永井さんが1992年に葉山に作った、一風変わったギャラリーの設立の話だった。

サンライトギャラリーは「誰にでも表現はできる。」という考えのもと、やる気とすこしのセンスさえあれば個展のできる空間だ。

ギャラリーが実際にあったのはたった3年あまりの短い期間だったそうなのだけれど、その数年でギャラリーに関わった人たちに、そしてその先の世界に多大なる影響を及ぼしたそうなのだ。そして、永井さんの提唱している考えがこれだ。

毎日の暮らしの中に「表現」という視線を持つことで、ひとりひとりの「生活」は人に伝わり「永遠」へとつながってゆくことができる。

僕とフウロが掲げる「つくるいきる」と非常に近しいというか、ほぼそのまんまというような価値観で生きてきて、その価値観のまま亡くなった。

とても興味が湧いたけれど、フウロが図書館から借りてきたその本は僕の気持ちが読もうと思ったときにはすでに返却されてしまっていた。

本を買って読むという行為は、心と金銭のバランスがちょうど整った時でなければできない。あれから1年以上時が経ち、たまたまにたまたまが重なって、僕はつい昨日、永井さんの本を開いた。

 

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確かにこの人の生き方は僕の目指す人生にとても近いものを感じた。

暮らしを大切にし、そこから生まれる作品で生きていく。極端な考えに感情を置くことなく、やや曖昧に、時には思い切って、風を舞うように生きている印象を受けた。それでいて、人生への向き合い方はとても真摯で、さりげない言葉の中に強さや厳しさが散りばめられている、そんな本だった。

30年近く前の話だ。今ではすっかり当たり前の文化として根付いていることもあって全てが真新しい情報ではないけれど、それでも生き方の考え方や物事の捉え方は少しも色あせることなく、むしろ現代やこれからの時代に必要な気がする。

とくに印象に残った言葉がある。

自分をさらけ出すことによってしか、大きな空間を埋めることはできない。小手先ではいくら作れても、やっぱりある大きさの空間を埋めていくにはかなり自分で本気を出さないとできないだろうし、勇気もいるよね。恥ずかしいと思ったりもするだろうし。でもそれで自分が自由になって、お互いのコミュニケーションがもっとよくなることは十分にある。

つくることでしか見えない世界があって、僕はその世界を明らかにするために手を使ってきた。永井さんはそれを「実験」と読んでたが、現代で多く使われれるその言葉と、意味合いは別のように思えた。

その試みをするときに恥ずかしさがある実験は、本番とも言える。本気でやるから恥ずかしさも勇気もいって、決してへらへらとしていられないような強さがある。実験の本番を積み重ねていったミルフィーユのような層の間に人生はあるような、そんな気がした。

もう25年も前にたたまれてしまったギャラリーだけど、サンライトギャラリーが残した価値はきっとまだその土地に生き続けているんだろう。

また、たまたまのたまたまが重なったときに、葉山のそこへ行ってみようと思った。

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