コミュニケーションほど、難しいものはないと思う。
話せば話すだけその人との輪郭がぼやけてしまうこともあるし、たった一言交わしただけで、もう十分なくらい通じ合えることもある。
僕もフウロも、一応美大の出だから、コミュニケーションはなにも会話だけでないことは感覚的にはわかっているけれど、フウロと一緒に定期的に出店をするようになって、なるほど。コミュニケーションというのはやはり難しいなと思うことがあった。
一見さんがフウロの作品を見に来てくれた時に、こちらが何か一言発するだけで、すーっと人が居なくなっていく。
じっくりと作品と対話し、「これだっ」と選んでくれるまで、5分ほどかかることもある。
それまでこちらは、目を合わさず、会話もせず、だからと言ってじっとしているとそれもそれで圧になってしまうので、やる必要のない包装紙の整理などをして時間が流れるのを待ち続けるのだ。
少なくとも、外国ではそういうことはなかった。
来てくれた人には、挨拶が当たり前。
相手の欲しい物を言語化して(ついでに欲しい価格帯まで聞き出して)濃密に会話のキャッチボールを交わす。
時にはそのやりとりが面倒臭いと思うこともあったけれど、日本人のそれは、正解がなく、気遣いに気遣いを重ねるので、ちょっと疲れる。
でも、コミュニケーションは誘導されて「無理やり」するものではなくて、お互いが必要な時に交わすのが本来の形だと思うから、本当はこれでいいのだと思う。作品を売る時はなおさらだ。
そんなことを考えていたら、一つの記事に出会った。
コミュニケーションの重要性が叫ばれる中、雑司ヶ谷手創り市ではコミュニケーションを優先しない | Living Entertainment
だから、この街を選んだ。
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「人と人とのコミュニケーションをいかに作るか」という試みが、色んなところで行われている。
そういう場ではたいてい、自己紹介が強制的に行われ、カテゴライズされ、短時間でいかに「雪解け」するかの構成が作られている。
合理的で、すぐに仲良くなって、サクッと友達のようなものができる。
大学の時から、そういう場所にいくつか参加した。自分の名前をあだ名で呼び、フランクに、笑顔絶やさず交流する。
楽しかったけれど、その場に抱いた違和感がいつまでも拭えなかった。
その時には仲良くなれたような気がする人たちと、その後交流が続いたことは無かった。
第一、あなたの本当の名前はなんだったのか。
名前を名乗らないのは楽で、責任がないことだ。
twitterで複数アカウントを持つような気持ちで、その場限りの人格であれば簡単に作れてしまうと思う。
それは僕にも当てはまることで、あだ名がついたその場限りの僕は僕でない笑顔を浮かべて人と接していて、あとでちょっと落ち込んだ。
僕も相手も、お互いのことをよく知らないまま、不特定多数の人と交流するものだから、一人一人への濃度が薄い。
それに、交流の方法まで指示されているものだから、肩書きとか、趣味とかの上澄みの情報交換にしかならなくて、話した5分後にはお互いがなんの話をしたのかすらも忘れてしまう。
今世の中でもてはやされているコミュニケーションは、ひとりひとりの輪郭をぼかして、話しているようで実は全く話せていない状況を生み出している気がする。
仕事ならまだしも、自分の人生を構成する居場所ぐらいは、自分の時間で、自分の手段で、焦らずゆっくり人と「対話」したいと思う。
肩書きやスペックとかの殻の中にある価値観でつながる人に時間を費やしたい。
もともと、本当の共感を得ることはものすごく時間がかかることで、そこにたどり着くための近道なんてない。
それは多分、恋愛とか結婚とかとも似ていて、どんなに恋い焦がれても相手がOKと言ってくれなければ付き合えないものだ。
みんなと仲良くなんかなれない。だからこそ、本当に仲良くなれた人に価値があるし、意味がある。
分けへだてなく会えるほど、人間は完成体ではない。
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近いうちに自分でイベントを作ろうと思っている。
自分が感じている課題をどう解決できるのかは、まだ解が出ていないけれど、せめてコミュニケーションの誘導だけはしないイベントにしたいと思う。
その時間を愛おしみ、こちらも相手も焦らず、自分のペースで自分の人生を選択できるように。
お金と時間を払って来た価値がどの人にも与えられるように、できる限りの準備をしよう。